改めて衆議院選挙総括、次の一歩のために
今回の衆議院選挙に当たっては民主党離党から「未来の党」からの立候補まで、めまぐるしい動きがありました。多くの方々に何があったのか今一度説明する必要があるとの思いから、以下まとめさせていただきました。新年を迎え反省を踏まえて次の一歩を進めていきます。
民主党離党、引き金となった脱原発と復興そして経済と環境
民主党の議員として政治活動をスタートし、横浜市会議員2期、衆議院議員1期勤めさせていただきました。民主党の中核で活動をしてきた自負と共に責任を感じつつ、民主党の目指す方向性と自身の理念の乖離を感じつつ任期満了の前日まで闘ってきました。
突然の解散発言を受けて、11月15日、解散の前日に離党届けを提出しました。以下の3つの政策の不一致が離党の引き金になりました。
まず原発の問題、民主党で脱原発を決めきるためにこれまで活動を続けてきました。野田総理をはじめ多くの関係大臣にも働きかけ、民主党内のエネルギー関連の会合にも全て出席し、脱原発を訴えて来ました。曲がりなりにも、原発の40年廃炉、新増設無し、再稼働は原子力規制委員会の承認のあったものに限定、そして2030年代に原発稼働ゼロをめざしてあらゆる政策をすすめるという、脱原発依存の方針を作るところまでこぎ着けることがでた。しかし、最後で閣議決定できず、エネルギー基本計画も決めることなく解散を決めてしまった野田総理。原発問題で結果を残せなかったことがこれ以上ついて行けなくなった第1の理由です。
次に東日本大震災からの復興、政権の最優先課題と位置づけていたはずなのに、復興は遅々として進まず、復興予算の被災地外の事業への流用も発覚するなど(復興予算奪還プロジェクトを立ち上げて取り組んできました)政府として言葉と行動が一致していない、被災地は置き去り、格好をつけるだけの政治に大いなる怒りを覚えました。最後の解散の決定では、野田総理は自民党との「ちかいうち」という解散時期の約束を優先させ、被災で苦しんでいる東北の皆さんとの約束は果たさなくても良いと考えたのか、そう疑わざるを得なかった。
最後に野田総理は国をどこに導いていこうとしているのか、TPP推進や大企業優遇の施策、経済成長最優先の政策には国民の生活や子どもたちの未来が見えていない。経済成長に過度に頼らない、定常的で安定した支え合いの社会を目指すべき、環境を守りながら持続可能な生活を営むためにどのように社会を改革すべきか、こういった視点をもっと大切にすべきではないか、主張をしてきましたが、民主党の国家像も結局自民党のそれと変わらなくなってしまった。
譲れないポリシーに関する部分で民主党の執行部の考え方について行けなくなったのが離党を決めた大きな理由です。
選挙は自分の核となるポリシー、考えに合った政治理念、マニフェストを掲げて闘わなければならない。この点で妥協することはどうしてもできないと。理念を貫いた結果の離党という決断です。
本格的な環境政党を目指して、「みどりの風」結党
民主党にはこれ以上いられないという思いと本格的な環境政党を創りたいという思いとが相まって、みどりの風の結党の行動を起こすことになりました。みどりの風の皆さんとは復興予算奪還プロジェクトをいっしょに進めさせてもらい、考え方や政治姿勢の確かさをお互いに確かめあってきました。その綱領の決定にも参加させてもらいましたが「日本型の共生社会」「自然資源の保全と活用」「ひとり一人が自らを生かせる日本」「ものを言える日本の外交」といった党の目標は、私の目指す社会像、国家像とマッチするものであり、これで選挙も自信を持って闘うことができると確信しておりました。
民主党を離党する時点で、衆議院議員選挙の選挙区は神奈川8区(青葉区・緑区)からは離れることを決心しておりました。地域の民主党の仲間の議員、支援者の皆さんと袂を分かちすぐに選挙で戦うことは許されない。これまで民主党山崎誠を応援くださった方を引き裂くようなことはすべきではないとの判断で8区を離れ、みどりの風から南関東ブロックの比例単独での立候補を目指していました。
「みどりの風」から「未来の党」への合流
みどりの風での選挙を急ぎ準備している最中、未来の党の立ち上げ、合流の話が持ち上がりました。以前より、嘉田知事、飯田哲也さん、阿部知子衆議院議員などと環境政党の立ち上げの話をしてきました。政治家のみならず市民もともに立候補する流れができれば、文字通り新しい政治を作ることができると期待しつつ働きかけをしてきました。自責の念も込めて既存の政治家には期待できないという思いが強くあります。私は小さくても真に理念が一致した仲間で政治の核を作るべきと主張してきましたが、声をかけた他の皆さんはとにかく数を集めて政治力を一気につけるべきとの考えが強かった。最終最後で未来の党が結成され、脱原発派は大合流という流れができることになりましたが、この多数を求める戦略が私は結局、失敗したのだと考えています。
私はみどりの風からの出馬を最後まで希望してきましたが、みどりの風も大合流を仕掛けてきたこと、脱原発を唱える政党、候補がばらばらに立候補すれば結局、票が割れ原発推進派を利することになるとの声から組織決定として未来の党に移り選挙を戦うこととなりました。その際、比例単独での立候補は認めない小選挙区で闘えとの方針が示され、選挙公示の直前に神奈川7区(都筑区・港北区)から出馬することが決まりました。神奈川7区はこれまで活動してきた8区の隣と言うことで土地勘が若干ある以外は未開の地、脱原発を望む方々の力のみがたよりという選挙になりました。
以上が今回の選挙の経緯です。結果を残せなかったこと、反省も込めてまとめさせていただきました。未来の党も早くも分裂することとなりました。(結局、選挙のために合流したと言われても仕方のない状況、当初懸念していた数を求めて中身を重視しなかったための失敗といえます。)今後、私自身どういうかたちで何を目標に政治活動を続けてゆくか答えを出していきます。追ってご報告します。
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